最終話 White solitude
暗闇から暗闇へ、紅花はひたすらに駆ける。
自分の中に巣くう冷たい"闇"、それを誰かに見られるのが恐ろしくて、一人になれる場所を求めてひた走る。
既に彼――天羽零彗にそれを知られていることにも構わずに。
共に悪魔と契約した身だと言うのに、なぜ彼はその闇に囚われずにいるのだろう。
底知れぬ混沌を抱えて、なぜ――?
「君はあいかわらず恥ずかしがり屋さんだね」
「出てこないで!」
自分の中の闇、アスモデウスに向かって紅花は吐き捨てるように叫ぶ。
いつの間にか聞き慣れた声、封印してしまいたい声。
つかず離れず、まるで自分の影のようについてくる。
「私は……まだ、堕ちてない!」
光りに包まれる街の中で、一人真っ黒に取り残されて行くのが怖かった。
その現実を見ないように、闇の中に隠れようと思った。闇に溶けてしまえば誰も自分を見ないはずだから。
自分の心を曝け出しても、誰も指差したりはしないはずだから。
けれどそこには先客がいた、自分と同じく闇に見初められたもの。
なのに、自分とは立場も想いも違うもの。
寄り添うふたつの影がふと脳裏によみがえって、眩暈がする。
「どうして……」
周囲は暗い。どこをどう走ったかも分からないからここがどこなのかもわからない。
いつしか紅花は走るのをやめていた。荒れた舗道に自分の足音だけが響く。雪が積もり始めている。
いつもなら知らない街は、逆に心が落ち着く場所でもあった。
だが今夜は雪の白が何処までも追いかけてくる。自分の闇を際立たせるように。
「どうしてあんな風に笑えるの……?」
「……君は、どう思ったんだい?」
不意にアスモデウスの声と舌が頬を舐める。
その問が自分のつぶやきにかけられているのだと気づいて、紅花は身を震わせる。
舌と声に寒気を感じただけではなく、恐ろしい答えが浮かんだから。
「私の心を見るのはやめて――!」
「――あの二人を、羨ましいと思ったんじゃないのかい?」
「そんなんじゃない!」
自ら黒に染まることを選び、笑ってみせるあの人が。
その姿が、羨ましくて――そしてとても――恐ろしい。
「くおん……」
知らず、紅花はその名をつぶやいていた。
まぶしすぎて、今では近づくことさえ出来ない幼馴染。
彼ならこの孤独を、この闇を、打ち砕いてくれるかも知れない。
けれどその光は余りにも強く、この街に降り注ぐ雪のようにすべてを白く変えてしまう。
自分が一点の染みになるのなら、いっそこの身体ごと斬り裂いて欲しい。
雪の中に皇久遠の幻影を見たような気がして、紅花は再び強い眩暈を覚えて立ち尽くす。
「お願い……私を……救って……」
溢れた涙が頬を伝って、真っ白な視界の中に溶けて行った。
冷たい風が雪を運び、二つの影を綯い交ぜにして行く。
教立ステラ学園の礼拝堂。その鐘楼最上部の窓に取り付けられたささやかなテラス。
聖域都市東京を一望できるその場所で、久遠はミカエルと共にたたずんでいた。
眼前彼方にそびえる異形の塔が、彼の視線を遮る。神聖教団レギオンを内包する聖幽塔は、学園の礼拝堂などより遥かに高く天を突く。
寒さは感じない。彼の内にある意志の炎は冬の荒天も意に介すことがない。
仮初の再生を成し遂げた東京。
新しい年の到来ににわかに活気づき、行き交う人々の足取りは軽い。
それらを久遠は複雑な想いで視る。
この東京に真実を知る者がどれほどいるだろうか。
それを知ったとき、この偽りの平和に何を思うのだろうか。
人は変化を望まない、今が安定しているならばなおさらに。
久遠がやろうとしているのは心地よい夢から人々の眼を覚まさせ、真実を突きつけること。
それが世界の望む未来、久遠に課せられた孤独な戦い。
それを重荷とは思わない。誰かがやらなければ世界はゆっくりと死んで行くのだから。
たとえ今は否定されるのだとしても、いつかは。
「雪って、綺麗だね!」
この世界は聖幽界とはだいぶ違う、とミカエルはいう。
久遠にとってもここまでの雪景色はあまり記憶にないが、いまさらはしゃぐような歳でもない。
しかし、それを喜ぶ者たち――穢れない子供達の想いまでは否定する気はない。
この東京にも多くの未来ある者達がいる、そのために自分が今、ここに居る。
久遠はそうして、自分の立っている場所を確認する。
けっしてぶれる事の無い決意を。
二度とあの悲劇を繰り返さないために。
「久遠、寒くない?」
「大丈夫だ」
三対の羽で己を包み込もうとしたミカエルに一言だけで返し、その抱擁から身をそらす。
ミカエルは少しだけ寂しそうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
そんなミカエルのほうが、久遠よりよほど寒そうな姿だ。
大天使にこの世の寒さなど関係無いのかもしれないが。
「……そろそろ戻るか」
「え?」
「見ているこちらが寒くなってくる」
短い言葉の裏に小さな優しさを感じて、ミカエルは破顔した。
「……うん!」
コートの裾をはためかせ、久遠は少し不機嫌そうに歩を進める。
ミカエルは笑顔のまま軽やかに久遠の後を追う。
差し出される手はない。
それでもそっと伸ばした指先が久遠の肩に触れ、仄かな温もりが伝わるような気がした。
text:土上椎
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