第5話 Across the nightmare


聖幽塔を、強く寒い風が吹き抜けていく。月はちぎれた雲に霞んでいる。
眼下に広がる聖域都市を、ジャッジは無言で見下ろしていた。
その傍らにひっそり寄り添う影のように堕天使ミカエルがたたずんでいる。
二人の足元の影は輪郭もおぼろげで危うい。
「よう、ジャッジ」
不意に、背後から声がかけられた。 ジャッジは仮面の奥にある視線をそちらに向けることもしない。
声をかけた側――リベリオンも返事など期待せず、足下の街に眼をやった。

遥か高みから見下ろす街は、七年の時間を経ていまだ壊滅したままのエリアと復興を成し遂げたエリアが交じり合い、複雑な模様を成している。
それでも一年の終わりを迎えるこの時期には、暗闇に覆われた地域にさえ所々にきらきらと点滅する光が見受けられる。
「ずいぶん賑やかだな、祭でもあるのか?」
そこでようやくリベリオンは顔を上げた。
ちらちらと舞う雪に眼を細め、互いに絡めていた腕をほどいて聖魔ルシフェルの肩を抱き寄せる。
「寒くないか? ルシフェル」
「ええ、大丈夫。なんだか胸が熱くて苦しいくらいよ」
「奇遇だな、俺もだぜ。お互いの熱がうつったのかもな」
「フフ、そうね」
他の存在を完全に無視して身体を寄せ合う二人に、ジャッジは音にならない声で、くだらんと呟いた。
リベリオンはそれを聞き逃さなかったが、文句を言うでもなくルシフェルの髪を指先で遊ばせる。
天空はみるみるうちに雲の厚みを増し、低く垂れ込めて街に圧し掛かる。

「年が変わろうと、人間は変わらん」
おもむろにジャッジが口を開いた。リベリオンは視線だけをそちらに向けた。
ジャッジの影にたたずむミカエルは微動だにしない。
「なぜ人は時の移り変わりを祝う? むしろ停滞を望む罪深き者達であるというのに」
「ああ、そういう事か」
ようやく合点がいった、という具合にリベリオンはうなずく。
「俺はキライじゃないぜ。人間が本当に停滞を望んでいるとも思えないしな」
「あら、哲学的な話?」
「そんなんじゃねえよ。どうせ哲学を語るなら、愛の哲学を歌にしてお前に聞かせてやる」
「うふふ、退屈そう」
再び二人だけの世界に戻るリベリオンとルシフェルに背を向け、ジャッジは宵闇に一歩を踏み出す。
「……付き合いきれんな」
「お前に付き合ってくれとは言わないさ」
場違いな台詞を背中に聞きながら、ジャッジが夜の空にも負けないほど暗い翼を広げた時、
「ジャッジ」
それまで無言だったミカエルが主の名を呼んだ。
心なしか、楽しげな色が声に混じっている気がする。
「なんだ」
「きれいですね」
振り返るとミカエルは空を見上げていた。
「雪」
舞い始めた白片と、それを生み出す空をいとおしげに見つめている。
ジャッジもまた空を見上げ、生まれて初めて見る自然を受け止める。
「きれいで、儚い。この街みたいね」
差し伸べた手に雪を受け止めてルシフェルが呟く。掌に舞い降りた雪は瞬く間に溶けて消えた。
「さあ、どうかな。世界が真っ白に染まりそうだぜ」
不敵な笑みを浮かべたリベリオンの言葉を聞いたのかそうでないのか、
「……くだらん」
ただそれだけを言い捨てて、ジャッジは吹雪始めた夜にその身を躍らせ、ミカエルもまた音も無くそれに続いた。
二人が消えた虚空に、雪が小さく渦を巻いた。


text:土上椎